たまたま目にしたTwitterでの出来事です。
海月ダンテさんのTwitter
賛否両論のコメントを目にして、その事について「私の意見」というよりは、「私の知っている事」を主に書きたいと思います。
まず、私の知っている法律上の話について。
この事を「遺棄による動物愛護法違反だ」という意見を散見しました。
確かに動物愛護法では「終生飼養義務」と「遺棄の禁止」を規定しています。しかし「終生飼養義務」について義務を課しているのはその動物の所有者・占有者に対してです。
実は、その所有者についての定義を動物愛護法でははっきりさせていません(主なケースとして、「餌やりさん」に関して動物愛護法と基礎自治体条例で「動物の所有者」についての解釈の違いが問題となるケースもあります)。
よって、社会通念上に照らし、このケースではダンテさんのこの行為はその動物の「一時保護」にあたり、法律上の所有者とは呼べないと考えられます。(一時的にでも保護していた期間は占有者に当たる)
尚、法律上、占有者にも終生飼養義務を課しています。
しかし、今回のケースのような占有者に対しては、終生飼養義務は発生しないと考えられます。
動物を「一時保護」することにまで終生飼養義務を課すならば、そもそも「一時保護」という概念そのものが立ち消えます。
「少しでもその動物を保護したならば、その動物を終生に渡り飼養すること、2度と元の生息地に戻してはいけない」というのは、どう考えても現実的ではありません。
次に「遺棄」についてですが、これに関しても条文自体はシンプルです。
環境省による2014年の各自治体に対する通知「愛護動物の遺棄の考え方に係る通知(PDF)」に、今回のケースで参考になる具体例が示されています。(具体的な判断要素-第1.離隔された場所の状況-2項、及び第2.動物の状態)
ここでポイントとなるのはリンク先の具体例で使われている「離隔された場所」というキーワードです。
みみ君にとって「離隔された場所」とは長年の生息地(餌やりさんも居る)であった公園以外の場所であり、その長年の生息地(餌やりさんも居る)であった公園に戻されることを「離隔される」とは解釈できません。
よって、「離隔されていない」とすれば、そもそも「遺棄」の是非については議論の余地がありません。
更に、上記PDFの「第3.目的」では「負傷動物等を治療」に必要な行為に関しては「遺棄」には当たらない具体例として示しています。
その上で今回のダンテさんの
「みみ君を長年の生息地(公園)で一時保護」
↓
「治療を試みるが、獣医による診断結果を受け、その結果による総合的な判断で治療を断念
↓
「元に居た公園に戻す」
↓
「余命はその公園に毎日ボランティアさんたちが出向き、みみ君に痛み止めと餌を与える」
この一連の行為は上記通知が示す考え方、及び社会通念上に照らし「遺棄」には当たらないと考えられます。
今回のこのダンテさんのケースまで法律を杓子定規に解釈し「終生飼養義務違反」及び「遺棄」と呼ぶのならば、地域猫活動でのTNR行為ですら動物愛護法でいう所の「遺棄」であり、「終生飼養義務違反」に当たりかねません。
無論、そのような事では動物愛護法で定める理念と地域猫活動の内容とで整合性の問題が生じてしまいます。よって今回のダンテさんのケースは「その動物の一時保護」であり、「終生飼養義務違反」及び「遺棄」には当たらないと考えられます。
次に動物に関する倫理からこのケースを見ます。
動物倫理学では動物は人間とは違い「死の概念」を持たないものとされています。動物は「死」という概念そのものを持たないので、人間のように「俺はいつかは死ぬんだな」といったような感覚はないという事です。
更にその「死の概念」は自身にのみならず、家族や仲間にも持ちません。例え同居猫が死んだとしても、残された猫は同居猫が「死んだ・逝った」といった概念は持ちません。
死に対してだけではありません、動物は人間のような中長期に及ぶ高度な未来志向や計画性を持ちません。
要は「今わが身に起こっている事」と、せいぜい「そろそろご飯を食べたいな」、或いは「そろそろ飼い主が帰ってくる」といった、時間枠でいうと「当日」程度の未来の事しか理解をせず、予測もしません。
当然、人間のように高度な計画を立てることもできません。
よって、治療を受けることもそれを「治療行為を受けることは不快だが、それが中長期に渡り自身にとっては有益な処置なのだ」と考えることはできません。
単に「突然、自身の身体の自由を奪われ、拷問を受けている」ような理解しかできないのです。
更に動動物倫理学では、動物にとって「自身の住み家だと理解している以外の場所に、突然監禁される事」は何より恐ろしい体験で「悪」とされています。
無論、それは人間でも相当恐ろしい体験ですが、動物の感じるソレは人間以上のものです。
この点でも動物は人間と違い「中長期に及ぶ未来」という概念を持たない事が綿密に関係しています。
人間のように「捕らえられた理由」や「じゃあどうすれば(どうなれば)?、いつになれば開放される?」といった未来に及ぶ予測や思考が一切働かないからです。
動物は「突然、拉致・監禁された状態」に対して「え?!何これ?訳分からない!とにかく怖い」という目先の恐怖感しか持てないので、その恐怖とストレスが人間より遥かに上なのです。
もちろん、「相手が置かれた惨い状況を、自分の事に置き換え想像する」事が利他行為の基本であり、それが動物愛護の原動力だとは思います。
しかし、みみ君の気持、精神世界を擬人化し「人間の気持ち」と重ねて考えても、本当のみみ君の気持や精神世界は見えないと思います。
以前、このコラムで批判した渡辺茂 慶応大学名誉教授の言う通り、動物の心の世界は人間の心の世界とは違います。これだけは明らかに言えることです。
以上の動物倫理に鑑みて今回のこのダンテさんのケースは、ダンテさんの判断が明らかに間違っていると倫理的に言い切れるものではないと考えられます。
治療そのものの是非に関して、つまり「余命宣告を受けた場合のその後の生き方」については生命倫理についての話になるので、ここでは言及しません。
これに関してはまさに「意見や価値観はさまざま」だと思うからです。
延命を望む・望まない・病室で・自宅で、絶対的な答えはありません。更に動物については、動物本人は自身の希望・意見を述べないので更に難しい問題だと思います。
つまりは、手術をさせる決断をし、それを行動にうつした他の保護活動家の方が間違っているかといえば、それも間違っていないと考えられます。
以上が今回のダンテさんとみみ君の件に関連し、私が知ってる事です。参考にしていただければ幸いです。
今回の件に関して私自身の意見や感想もありますが、ここではその一切を述べません。この件に関しては答えがひとつだとは思わないからです。
それでもひとつだけ言うならば、沖縄の公園で苦しんでいた飼い主の居ないみみ君のことを、真剣に考え、意見を交わす方々がこんなにたくさんいるんだな、とその事自体はうれしく思いました。
何より、どのような対応であれ、みみ君の余生が少しでもよい事になるよう願っています。
参考:動物愛護法入門〔第2版〕(共著) 民事法研究
参考:日本の動物法 第2版-青木人志 (著) 東京大学出版会
参考:日本の動物政策 打越綾子 (著) ナカニシヤ出版
参考:動物からの倫理学入門 伊勢田哲治(著) 名古屋大学出版会
参考:動物の権利 David DeGrazia(著) 岩波書店
参考:環境と動物の倫理 田上孝一 (著) 本の泉社
参考:動物たちは何を考えている? -動物心理学の挑戦- (共著) 技術評論社