令和2年6月2日 朝日新聞より
全体的に論点を結ぶ「点と線」がはっきりとぜず、やや話が取っ散らかっている。
この話し手は、こういった「余計なことを言う」性格なのかもしれない。
うがった見方をすれば、いち動物実験者として昨今の動物愛護の気運の高まりに警鐘・・・もとい、水を差したかったのかもしれない。
順を追って批判しよう。
まず主題は「擬人主義 理性を曇らせる」とのことだ。
そして冒頭で「実験動物の擬人化による感情移入を防ぐため、番号で呼び、実験室に来た時点で死んでいると考えよ」と研究室のしきたりを暴露する。
感情移入を防ぐ?・・・これもある意味「人間としての理性を曇らせる手段」ではなかろうか。
「非擬人化 理性を曇らせる」と、のっけから主題と矛盾する。
そもそも「理性」の源泉となる善悪の判断基準は立場、事情、状況により変動する。
故に「葛藤」という言葉が存在するのだ。
皮肉なことに、話し手が挙げたこの件こそいい例である。
研究者としての理性、それ以前に人間としての理性。
同じ「理性」だが実験動物の扱いを対象とした際、それらは完全に相反する。
つまりどちらか片方の理性のプライオリティーを高めるために、もう片方の理性を曇らせねばならぬのだ。
この状態を「葛藤する」と呼ぶ。
その為にわざわざ実験動物に「名前をつけてはいけない」「番号で呼びなさい」、実験室に来た時点でケンシローばりに「おまえはもう死んでいる」と思い込む事としている。
これらは明らかに「研究を進める」ことを善とする研究者としての理性を優先させる為、「命あるものを利用し、苦しめ殺す」ことを悪とする人間としての理性、又は道徳的直観、つまりは罪悪感を曇らせていることの証左であろう。
死刑執行の際に、3人の執行人が3つのボタンを同時に押すと聞いたことがある。
職務を全うする為「命を奪う罪悪感を曇らせる手段」という意味では、それと構造が似ている。
恐らくこの理性のダブルスタンダードについて話し手自身がまったく気にしていないのであろう。(もしくは、気が付いてすらいない)
よって、主題と本文との関係性が、この冒頭部で既に破綻しているのだ。
この話し手は、主に動物を使った実験をしているとのことだが、倫理学は学ばなかったのだろうか?。
この程度の理性の矛盾についての考察は倫理学や哲学の世界では小学生レベルのことだと思うが。
付け加え、回想話とはいえ、今時こんなデカルトの動物機械論を連想させることを、嬉々として語るこの話し手。
令和にもなった現在、動物実験者としてのリテラシーは大丈夫なのだろうか?。
我が国でも2005年に改正された動物愛護管理法で実験動物に対し「3Rの原則」が取り入れられ、その翌年には文科省が傘下の大学や研究機関に「研究機関等における動物実験等の実施に関する基本指針」を告示している。
どちらも動物福祉の観点から、実験動物に対する「できる限り」の配慮を求めている。
話し手の個人的な価値観や思想など1㎜も関係なく、いち動物実験者としてそれらに従う事は責務なのだ。
加えて、科学的心理学での行動主義。
つまり「動物は被験者として言葉で内面状況を報告できない」故に、擬人主義を否とする象牙の塔内での合理性。
それを紙面コラムの一般論として、ナチスまで持ち出し「動物と分かりあえると思う者は理性に問題がある」と飛躍させるのは、明らかに筋違いであろう。
そもそも、「心の違いを認識する理性」とのことだが、そこに「理性」という言葉が相応しいか甚だ疑問である。それを言ったら「他者(他種)との共通点を認識する」ことも紛れもなく「理性」である。
更にその後は、自身の自慢話を交えつつ、ハートウォーミングな動物エピソードを振ってくる。
が、その後、急に態度を豹変させ「動物とヒトとの区別をつけぬ連中はナチス同様!」と警鐘を鳴らしまくる。
まるで酔っ払いの話を聞いているようで、もう訳が分からない(笑)。
世界で最初に動物保護政策を推し進めたのはナチスだとミスリードを誘うような言い回しだ。
しかし、最古に制定された動物を保護する法律は、イギリスで1822年にリチャード・マーチン議員の働きにより成立した「家畜の残酷で不適当な使用を禁止する法律(=マーチン法)」である。
更に、その後同国で1911年に「動物保護法~Protection of Animals Act 1911」が立法され、その内容が拡大される。
フランスでは1850年に「1850年7月2日法」(グラモン法 loi Grammont)で、動物虐待を処罰する法律が規定される。
そして肝心のドイツでは1933年に制定された「ライヒ動物保護法」が動物保護法制度の始まりとなる。
動物保護政策はナチスが誕生する100年以上も前に、既に他の国で推し進められている。
何より、「人間と動物を区別しない(動物保護)という考え方を推し進めたは意外なことにナチスドイツでした」とあるが、正確には「意外なことにナチスドイツは動物保護政策も推し進めていました」の間違いあろう。
この二つの言い回しは、全く違う意味をもつ、似て非なるものだ。
この話し手の勉強不足と、基礎的な国語力不足に唖然とする。
ナチスは動物保護に限らず、同時期に森林法と自然保護法も含め環境保護政策を推し進めている。
確かに「森林の種に関する法律」は、「ドイツ森林の価値の高い遺伝素質を維持し、品種改良し、そして同時に種的に価値の低い林分と個々の木を除去する」ことを目的としていた。
無理くりこじつけ、そこにナチズムを見いだせない訳でもない。
とは言え、さまざまな理由で特定の植物の伐採はどこの国でもやっている。
これらの政策、及び思想が原因で、最終的にユダヤ人の大量虐殺に結び付いたのか否かは私には分からない。
中でも、そのような規定もなく、単に「動物を保護する」ことを目的とした動物保護政策。こちらに関してはなおの事である。
疑似恋愛だか何だか知らないが、少なくともそこまで短絡的な話ではないだろうと、短絡的な私でも思う。
ナチスを「動物保護政策=悪」の拠り所としているが、そもそも「動物保護政策=ナチスの凶行」の関連性の確たる根拠が全く分からない。
ならばイギリス・フランスをはじめ、我が国も含む「動物を命と情動のあるものとして配慮し、動物保護政策を進める各国」は、今後疑似恋愛や共同体うんぬんで、ナチスと同じ道を歩むのだろうか?。
どうか酔いを覚まして現実を直視していただきたい。
この事について、とても的を得ている記事を見つけた。
痛快なほど、この話し手の論理展開の「悪質さ」と「安直さ」と「愚かさ」を指摘している。
是非、下記リンク先を読んでいただきたい。
藤原『ナチスのキッチン』:せっかくの調査が強引なイデオロギーはめこみで台無し。 - 山形浩生の「経済のトリセツ」
↑
「ナチスを持ち出してあれやこれや言う議論は、無内容でくだらない連想ゲームと悪質な印象操作に堕す」とバッサリ(笑)。
「動物愛護はナチス」「ヒトラーはベジタリアンだった」についての雑感 - 道徳的動物日記
しかし最後を締める「動物の心は我々が期待している様なものとは違うかもしれない」という考えには共感できた。
このようなサイトを運営している私だが、動物に対し言葉や気持ちが通じたと錯覚する事の殆どは、動物側は何かしらの「習性」でそのような反応を示しているだけだと思う。
その根底には「彼らは我々ヒトとは同じでない」という私なりの認識があるからだ。
その上で彼らのいのちも尊重できる社会に変わって欲しいと願い、このサイトを運営している。
最後に私の好きな曲の歌詞の一部を掲載しておく。
John Lennonが書いたこの下りは思春期で自意識過剰だった私に大きな影響を与えた。
そしておっさんになった今でも動物に限らず、大切な家族や友人たちに対しても同じことを思っている。
話し手も余計なことばかり言っていたが、単にこういうことを伝えたかっただけかもしれない。
Always, no, sometimes think it’s me
これが本当だといつも思ってる
But you know I know when it’s a dream
だけどこの僕さえ虚構かもしれない
I think, er, no, I mean, er, yes
きみのことを解ってるつもりでも
But it’s all wrong
すべては僕の一人よがりかもしれない
That is I think I disagree
つまり僕ときみは同じじゃないってことさ
~Strawberry Fields Forever~