動物愛護x選挙 ベッドでくつろぐ2匹の黒い猫
「殺させてくれて、どうもありがとう」
いかりや長介_名言

「ありがとう」と「ごめんなさい」、幼い頃初めて身につけた社交性がこのふたつだった。
そして大人となった今、大切な家族との生活の中で欠かせないのも、やはりこのふたつだ。

唯一変わった点は、かつてはきっちり使い分けていたこのふたつの対義語を、大人になった今は「この場合どちらだ?」と少々迷う事が増えた点だ。
「付き合ってくれてありがう」か「付き合わせてしまってごめん」か。
とは言え大抵の場合は前者を伝える。
受けとる側も謝罪より感謝の方が気持ちよかろう。

そして世の中にも「何事にも感謝」みたいな価値観が広まっている。
実に結構な話だが、ヒトの都合で一方的にいのちを奪われた動物にまでそれが及んでいるのには違和感を覚える。
畜産動物や実験動物に対してまで、やれ「いのちに感謝」だの「動物たちにありがとう」だの。
居酒屋店内にありがちなヘタウマ文字の小言と同じノリで言っているのだ。

へたうま説教

そもそも「感謝」とは相手の意志で差し出された善意に対し、受け取る側が表す意だ。
ヒトの都合で勝手に繁殖させられ、無理やり苦しめられ、一方的に殺された動物たちにヒトなんぞから感謝される筋合いは一ミリもない。

世知辛い世の中だ、心温まる素敵な小言にうっとりしたいのも無理はない。
しかしヒトが有無を言わさず搾取したいのちに対してまで「ありがとう」だの「感謝」だのは相応しくない。
力による支配を源泉に、一方的に押し付けた犠牲にはどう考えても謝罪であるべきだ。

「殺させてくれて、ありがとう」とはどこかおかしな日本語だ。
先に述べた違和感の正体がそこにある。
「殺してしまい、ごめんなさい」が言葉としても態度としても正しい。

動物たちへの不当な扱い(種差別)をはじめ、様々な差別を正す為には、まずは自らの態度を正すべきだ。
世に蔓延するありとあらゆる差別の根源が、差別者の「思い上がり」である。
肌の色、生まれた国、性別、障害や病気を理由に一方的に相手を見下す。
そういった態度を「思い上がり」と呼ぶのだ。

「殺させてくれて、どうもありがとう」
これも明らか生殺与奪権を掌握した側の思い上がりに満ちている。
しかも言っている本人に悪意がない分、更にたちが悪い。

要は安物のチョコをバリバリと貪り、「チョコって何でこんなに甘くて美味しいんだろう、開発途上国の児童労働に感謝をしなくては・・・、ありがとう貧困児童達」とのたまうのと同じ事だ。
もはやポエムのような心地よい言葉に頭が毒され、思考停止しているとしか思えない。

児童労働問題


悪趣味な画像で大変恐縮だか、その心地よい言葉とやらが場合によっては、どれほど傲慢かつ不適切な言葉となるのかを身に染みていただければ幸いである。
この幼い子供も畜産・実験動物も置かれている立場は同じだ。
どちらも強制的に他者に利用され、残りかすも出ないほどに搾取されている。
それに対し我々が間接的、又は直接的な既得権益者であるという点も同じである。

どうか目を覚ましてほしい、何にでもありがたがればいいというものではない。
まずは犠牲になっている動物たちに対する「思い上がり」とそれに伴う「態度」から正すべきだ。
「自分に出来る事は何か」を考えるのはそれからでも遅くはない。

どうしても何かに感謝しなくては気が済まないのであれば、生産者や研究者に感謝すればよかろう。
その方がいくらかは筋が通る。

動物たちが我々にいのちを捧げてくれているのではない、我々が彼らのいのちを奪っているのだ。
その当たり前を忘れてはならない。

フェアトレードチョコ
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