動物愛護x選挙 ベッドでくつろぐ2匹の黒い猫
動物の解放 改訂版|ピーター シンガー(著) レビュー -2-

動物の解放 改訂版
ピーター シンガー 著
戸田 清 訳
出版年月日 2011/05/20

動物の解放
第一章と第六章「功利主義」「限界事例の議論」について

ネットで本書のレビューをみるとやれ「功利主義」だ「限界事例の議論」だと、生まれてこの方聞いたこともない言葉を目にする。

「功利主義」とは要は「できるだけ多くの人(個)を、できる限り幸福にすることを最良とする考え」である。
功利主義について更に詳しく知りたい方はググっていただきたい、私の説明なんかより100倍良いだろう。

動物倫理を更に研究するならその限りではないが、乱暴に言えば、この本を読む上で「功利主義」への理解を徹底的に深める必要はない。
「社会的な行為や制度は、一人でも多くの個が幸福を感じられることがもっとも望ましい。
ならばその頭数に人間だけでなく、実験・畜産動物をはじめとする有感生物も含めるべきだ。
その方が更に幸福な個体数が増大する」
と、その程度の理解で問題ない。

同じノリでベジタリアンのことを考える際にも「功利主義」を応用できるだろう。
「肉を食べなくたって人は幸せに生きていける。
現に幸せに生きているベジタリアンがたくさんいるじゃないか。
だったらベジタリアンが増えた方が、その分畜産動物の苦痛が減る(幸福度が増し)。
よって、結果的に幸福な個体数の最大化につながる」
といった具合にだ。

しかしベジタリアンになるのにいちいち「功利主義とは!」と考える必要もなかろう。
私が無教養なせいかもしれないがいささかナンセンスに思える。
もっとも「バカから見てバカらしく思える」ということはやはり高尚な考えなのだろう。

ひとつ付け加えておこう。
「幸福の最大化」を善しとするならば、その為に「少数の犠牲」はいとわないのか?
という疑問が生じることだ。
功利主義ではそれが原則YESとなる。
「1000人の幸せのためなら、一人のマイノリティーの不幸は仕方ないっすね」
↑これも功利主義の考え方である。
ただし、その点はこの「動物の解放」では触れられていない。
この本は本格的な倫理学書という立ち位置ではないからだろう。

さて重要なのは、本書の中で著者が語っている下記の部分である。
功利主義うんぬんより、此処こそ著者が提唱するロジックの命であるといっても過言ではなかろう。

「石ころが子どもに路上で蹴られるのは、石ころの利益に反するなどというのはナンセンスであろう。
石は苦しむことができないので、利害を持たないのである。
私たちが何をしようが、石の利益が損なわれることなどないのである。
これに対して、マウスが路上で蹴られることはその利益に反する。
なぜなら蹴られたらマウスは苦しむからである。」

それを基に「限界事例の議論」が展開される。
「限界事例の議論」を簡単に説明すると

(Aさん)マウスにも道徳的地位を与え、人道的配慮の範囲に入れるべきだ。
マウスも人間と同じく苦しむ能力を有しているからである

(Bさん)しかしマウスは人間みたく言葉を話したり、法律(ルール)を理解したりしないじゃないか。
それを人間と同じに扱うとか変でしょ

(Aさん)だったら、言葉やルールを理解できない重度な知的障害者。
及び乳幼児や重度の精神障害を持っている人は動物なみに扱ってもよいという事になるのか?

(Bさん)いや、待てよ。
重度な知的障害者は人間だから。

(Aさん)だが今、「言葉を話す、ルールを理解する」事を人間の条件にしたではないか?。
だったらその条件は整合性を失うであろう。

以上である。

重度な知的障害者、及びそのご家族の方はお気を悪くされるかもしれない。
しかし、ざっくり言うと、これが「限界事例の議論」である。

今や本書に限らず、動物倫理を議論する上で「限界事例の議論」は必ずと言っていいほど登場する。
もはや、動物の権利擁護派の「伝家の宝刀」にされている感もややある。
しかし、ヒトと動物を隔てる道徳的な一線をめぐる議論には欠かせないテーマであろう。

更に著者は、「人間ではないという理由」だけで、人間と同じように苦しみを感じる動物を最大幸福や平等な配慮の射程から除外する事は、「種差別」であると批判する。

ここさえ理解すれば、本書に限ってはこれ以上難しく考える事はなかろう。

付け加えると、私は道徳的地位の範囲の線引きに「苦しみを感じることのできる動物=脊椎動物」をそのまま当てはめることが出来ずにいる。
「哺乳類・鳥類・爬虫類・両生類」までは理解できる。
しかし、「魚類」までそこに含めるのには今後更なる研究と検討と重ねたい。

第二章 「実験動物」について

そしてこの本の1/3以上を占める第二章・と第三章は実験動物と工場畜産の著者の殺気迫る告発である。

まずのっけから実験動物の章は本当にきつかった。
容赦ない表現で次々に描写される動物実験の実態に「もういいよ!」と本を閉じた事もあった。
文字通り「嫌というほど」その闇を思い知らされる。

ただし内容は初版の1975年のものがベースとなっている。
例を挙げると、本書で告発されている「LD50テスト」に関してはOECD(経済協力開発機構)による禁止を受け、現在では日本(厚生労働省)ですら、証拠として受け入れられないとしている。
「ドレーズテスト」に関しても、現在では動物福祉に配慮して行っているという(実験者側の意見)。

つまりここで挙げられているケースのいくつかは、やや古めのものも含まれる。
それは本書に掲載されている写真のディテールからも察する事ができる。
本書で告発されている実験動物に対する扱いをまるっと受け入れ、その批判に感情を昂めるのは、事例によっては時間軸にややズレが生じるかもしれない。
同じ事を「愛護団体が動物実験を糾弾する際の問題点」として「日本の動物政策(2016)」で打越綾子も指摘している。
(本書に対しての指摘ではなく、愛護団体が事例として槍玉にあげる実験の事)

どうしてもこの動物実験の章を読むのがつらいと思う方は、「今は少しはマシになってるはずだ」と多少の脳内修正をしながら読んでもよいかもしれない。
(私もそれを意識しながら読んだ、とてもつらい内容だったので)

ただし現在でも日本の各研究機関の自主管理方式に対する「異様」とも呼べる執着。
及び登録制・届け出制を頑なに拒絶する姿勢。
それらは、他の先進諸国と照らし合わせた際に、私がこの国の人間である事に「恥じらい」という感情を与える。
この事はいずれ改めて書こうと思う。

第三章 「工場畜産」について

吉野家、すき家の牛丼の具材になる前の牛たちの姿を想像してみよう。
この様な光景が浮かぶ方は、己の無知と考え方を根底からを変えさせられる。
私もその一人だ。

牛の放牧

これまでは畜産動物を考える際に「屠殺」、そこをピンポイントに強い残酷性を感じていた。
つまり屠殺場に至るまでのプロセスは考えてもいなかった。

しかし本当の残酷性は屠殺だけではなかった。
正確には「屠殺ではなかった」と言っても過言ではない。

集約的畜産にとって動物は単なる「大量生産製品の原材料」に過ぎないのだ。
つまり「床面積あたりの利益」という経営的発想を畜産動物管理のそれに当てはめれば、そのプロセスの正体におおよその見当がつくだろう。
経済活動の効率化にしか正当性を見いだせない者たちが「原材料」の福利など考える筈があるまい。
自動車製造業が一円だって安く車を生産したいのと同じことだ。
集約畜産業では車が牛に置き換わる、それだけのことである。

「いのちへの礼儀(2019)」で、生田武志は「工場畜産では死の苦しみは最小化され、生の苦しみと尊厳の剥奪が最大化された」と指摘する。

わが身に置き換えて想像していただきたい。
「意識を奪われ、無意識の中で喉を掻っ切られ死に至る」

「完全に身動きのとれないラッシュ時の超絶満員電車に2年も3年も乗り続ける」
ではどちらが苦痛だろうか?。

勘違いしないで欲しい、後者は「通勤時」に限った話ではない。
24時間絶えず乗り続けるという意味だ。それで2年、3年である。
もちろん排便も「そこで立ったまましろ!」という事だ。
性欲処理?、そんなものは必要ない、麻酔無しで去勢済みだ。
おまけにそこには窓などない、「ずっと同じ一点を見続けていろ」そういう事である。

更に自分から振っておいて何だが。
あなたが「俺だったらこっちの方が苦痛だ!」と一方を選択する事は、畜産動物の苦しみを考える上で特に意味を持たない。
何故なら彼らは二者択一などではなく、その両方を否応なしに押し付けられるからだ。

~その3へつづく~

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