動物の解放 改訂版
ピーター シンガー 著
戸田 清 訳
出版年月日 2011/05/20
ピーター シンガー
オーストラリアの有名な哲学者である。
モナシュ大学のヒューマンバイオエシックス研究所 の創立時の所長、国際生命倫理学会創設時の会長。
現在は米国プリンストン大学教授。
専門は応用倫理学。
『ザ・ニューヨーカー』誌によって「最も影響力のある現代の哲学者」と呼ばれ、2005年に『タイム』誌では「世界の最も影響力のある100人」の一人に選ばれる。
何やらすごい人らしいが、私にとってピーターと言えばピーター・アーツであり、シンガーといえば歌唄いのことしか浮かばない。
動物愛護の書籍について色々調べている時に、あちこちのサイトに「シンガーが~」「シンガーは~」とあり、一瞬本気で「動物愛護の曲を自作自演するシンガーソングライター」の事だと思ってしまった。
ウケ狙いの創作エピソードではない、リアルな話だ。
ふわっとしたしたイメージで連想的かつ性急に物事を捉えてしまう。
無知が未知と遭遇した際の、楽しき悲しき脳内アルゴリズムである。
そんなこんなで、「動物の解放」という本を知る。
調べるほど動物解放運動のバイブル、金字塔、すべてはここからはじまった的な売り文句のオンパレードだ。
最初の1冊はこの本にしようと決めた。
まず値段を見て驚いた、税抜きで4,400円である。
今では本を買い漁るようになったので感覚が麻痺したが、当初はその高さに驚いた。
そんな事もあり、実はまず図書館で借りた。
しかし少し読んだ時点でずぐに考えは変わった、「ちゃんと読む本は買う」そう決めた。
世の中には数千円のくだらない金の使い方も星の数ほどある。
それに引き替え本は著者が全身全霊で書き上げた事、それを熟読し自身の身につく事を考えれば安いものである。
真剣に読む本は新品を購入し、綺麗な状態の「自分の本」を読む。
やや大げさではあるが、その本を自分の血と肉にしたいからだ。
もちろん人によってはお金を使わずに図書館で読むことでも何ら変わりはないだろう。
二○○九年版への序文
一九七五年版への序文
第一章 すべての動物は平等である
第二章 研究の道具
第三章 工場畜産を打倒せよ
第四章 ベジタリアンになる
第五章 人間による支配
第六章 現代のスピシーシズム
付録1 動物解放の三○年
付録2 著者について――シンガーによるシンガー
ざっとこんな感じだ。
倫理の本というと小難しそうに思えるが心配は無用だ。
私のようなバカでも腰を据えれば問題なく読めた。
そもそも倫理についての小難しい話は第一章と第六章だけである。
それより読むことを難しくしているのは、本書の「悪訳」であろう。
まるで機械翻訳のような意味不明の日本語。文章として破綻している訳のオンパレードだ。
英文学者、翻訳家の別宮貞徳曰く「原文がその読者に与えたのと同等の効果を,訳文もその読者に与えなければいけない」。
本書の訳にはそのような効果は微塵も感じられない。
まずは序章とも呼べる「二○○九年版への序文・一九七五年版への序文」とラストの「付録1 動物解放の三○年」はいわば著者のドヤ顔自慢話である。
「俺の振った旗の元、世の中はこんなに変わった!」的なものだ。
(一方で著者は後年、「わたしが『動物の解放』を書いたとき、 わたしはこの本が世界を変えると本気で考えていた。 ~中略~ しかしちょっと街に出てマクドナルドに行ってみるといい、 わたしがそれほど成功しなかったことがわかるから」とも述べている)
初版発刊の1975年に産声を上げた動物解放運動。
それが、長い年月を経てどの様に展開し、どれだけの動物達を救ってきたのか。
その数々のエピソードには深い感銘と勇気を与えられる。
近年では海外のマクドナルドでも代替肉ハンバーガーが発売されるまでになった。
そのことにこの「バイブル」がまったく無関係ではないだろう。
しかし、その中でもっとも印象に残ったのエピソードがある。
著者は決して動物を「好き」なわけではなく、とりたてて「興味を持っている」わけでもない。
さらに、著者はペットを飼ったこともない。
ただ苦しみや痛みを感じる能力を有する動物が、まるで「物」のように乱暴な扱いをうけることへの防止に関心を持っているだけだと言う。
更に「動物を解放しようとする人」を「動物愛好家」と決めつけることは、黒人解放のために闘う人を「黒人愛好家」と決めつけるようなものだとも指摘する。
なるほど、確かに私も連れ合いと代々木公園のLGBTの方々のイベントに参加し、彼・彼女らと共に渋谷の街をデモ行進したことがある。
だが我々二人はいわゆる「ノンケカップル」であるし、「同性愛者愛好家」というわけでもない。
ただ彼ら、彼女らにも結婚制度を認めるべきだと思っているだけだ。
私は結婚制度とは、血縁関係にない2人の信頼関係を「家族」として社会的に担保し、同時にその双方が「婚姻」という法律上の契約当事者とし、その契約に対しての社会的な権利と義務を負うものだと理解している。
ならばその契約者双方の必須条項を「身体的な異性同士」と限定することに、何ら合理性を見いだせない。
話を戻そう。
私は飼い猫は溺愛しているが、実は動物全般に対し「すごく好き」というほどではない。
ただ「撫でる」ために動物に近づきたいとは思わないし、そもそも動物を見て「撫でたい」と思ったことはない。
パンダの赤ちゃんに世間がざわついてようが、私は別に何とも思わない。
よって著者のそのエピソードには強いシンパシーを感じた。
とは言え、満ち足りているであろう動物の幸せそうな姿を見ると心から笑顔になる、さすがにそこは著者ほどドライではない。
~その2へつづく~